2015/8/30(日)

 
今日は曇り。

 今日から2日、クラブツーリズムの『竹田城跡と備中松山城・後楽園・岡山城・世界遺産 姫路城 2日間 バイキングの夕食付きプラン』に行く。ふるさと割」により10,000円の補助がついて26,700円とは格安!(「ふるさと割」とは「地域活性化・地域住民生活等緊急支援のための交付金事業」 岡山県交付金利用) はてさていかなる旅になることだろう。飛行機が羽田7時25分発ということで、早起きして駅まで歩く。





羽田の国内線は久しぶり





集合場所に行ってみると、やはり高齢者が多い。総勢128人でバス3台の旅になるそうだ。





行きはANA。





雲を下に眺める。いつもとは反対なので私的には良い景色!





おや?遠くに白いものが飛んでいる。





同じか少し早いスピードで飛んでいる飛行機らしい。





いっぱいにアップにして撮影するとやはり飛行機、ANAの国際線かな?





機内販売で素敵な時計があった。欲しい。





岡山上空まで降りてくると雲の切れ目が・・・

 岡山空港は広島空港と同じで山の中にある。広島より東京や大阪に近い岡山空港を乗り降りする人は少ないと思われる。その搭乗客を増やすために「岡山県交付金」が下りているのではないかと推察する。





岡山空港に8時40分着。2日間乗るバスが待っている。席は決まっていて一番後ろ左側。



 まず最初に備中松山城に。備中松山城は備中は高梁市の市街地を見下ろす 標高430メートルの小松山山頂に現存する山城で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。1683年水谷勝宗の手によって完成。国指定重要文化財(国宝)である。





 平日は自家用車で8合目のふいご峠まで登れるそうだが、シャトルバスが走っている日(土日とか観光シーズン)は、5合目の城見橋公園までで、シャトルバスに乗りかえるのだそうだ。私たちは下で大きなバスから貸し切りのシャトルバスに乗り換え、ふいご峠までで狭い道を登る。





バスの中で元気な年配の女性ガイドさんから説明を受ける。





ふいご峠(8合目)からは徒歩で約20分程、足場の悪いこんな山道を歩く。杖の貸し出しがあった。





途中で高梁市の市街地を見下ろす。鉄道網が発達する昔は沢山の人口だったのだそうだ。
添乗員が言うに、昔一番人口が多かったのは新潟平野だったのだそうだ。ふ〜ん





到着!





国宝の三の平櫓東土塀。





備中松山城 天守





備中松山城の歴史

 この城の歴史は古く、鎌倉時代の1240年に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化するが、なかでも1574年に起こった 「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山ー大要塞となっていたことがうかがえる。

 当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が 防長二国に退いてからも、備中 国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築が なされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていた。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えるが、現存する 天守などは1683年に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。

 版籍奉還により、明治6年(1873年)廃城令が公布され、(立派なお城が沢山壊されて行ったのだそうだ。ふ〜ん) 御根小屋は取り壊された。また、山上の建物は放置され次第に荒廃していったが、昭和の初め、高梁市の市民により修復されたと聞く。





では「日本100名城」にも選ばれた城内に

















朽ち果てた天守は、先ず木組みだけにし、資料に基づき修復されたとある。





御社があった。





天守からの眺め。普段ここにお殿様は住んでなかったのだそうだ。





天然の岩盤の上に石垣を築いた「二重櫓」





帰りはそれ程足場の悪くない道を下りる。





下界





雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台からの写真





「石火矢町ふるさと村 」をバスから撮影

 備中松山の城下町。その中で石火矢町は武家の町として営まれ、今も格式ある門構えの武家屋敷が250mに渡って立ち並んでおり、岡山県のふるさと村の指定を受けている。





後楽園までのバス移動の時間に、1,000円のお弁当は予約せず、ローソンの弁当を頂く。





車内風景



 次に訪れたのが岡山城と日本三名園のひとつである後楽園。岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年に着工し14年の歳月をかけ1700年に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた。





知らなかった、岡山城が後楽園の側にあっただなんて





では後楽園に入ってみよう!





芝生が手入れされた綺麗な庭園





旭川の上から岡山城を見る。























表書院跡地を上から望む。





 今の岡山城は、1945年6月29日の岡山空襲で天守、石山門を焼失、昭和39年から昭和41年に天守が鉄筋コンクリートで再建されたもの。で、中の写真はなし。





すがすがしい後楽園





美しい景色!





鯉のエサが売られていて、エサをやる人も多い。





今日のお宿は「岡山シティーホテル 厚生町」





お部屋は広めで綺麗。





街に出てみる。共用の自転車「ももちゃり」があった。





夕食はホテルのバイキング1,700円也








 2015/8/31(月)

 
今日は雨後曇り。

 二日目の今日は姫路に移動。先ず、「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる今話題の竹田城。残念ながら雨。





朝食もバイキング





 竹田城へ移動の途中山陽自動車道のサービスエリアでお土産を購入。400円のタダ券を頂き、買い物し直して集合時間に数分遅れ、「時間厳守でお願いします!」と叱られる。(他にも遅れた人がいたが) 岡山名物きび団子とトーストに塗って焼くアーモンドバターを買う。











ここは山頂付近まで歩きやすい道だった。





雨、雨、本降りの雨。





 東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

















雲の切れ間から下界が見える。





【写真提供:吉田利栄】

 あまりにも有名なこの景色は、竹田城跡を円山川の対岸に望む「立雲峡」からの遠景撮影によるもので、当たり前だが竹田城そのものからは見ることは出来ない。もう一つ山を、もっと高い山に登らなければならない、当たり前のことだけど。

 しかもこの雲海だが、9月〜11月の(2月末までは見られるが、晩秋が一番発生しやすい)  明け方から午前8時頃までで、湿度が高く十分な放射冷却があり、よく晴れていて、朝方と日中の気温の差が大きいく、その上 風が弱いという条件のもとにだけ見られるのだそうだ。写真で我慢しよう、想像しよう。





姫路城途中の道の駅に立ち寄る。姫路はさして有名なお土産物がなく、何も買わず。





「白すぎ城」と揶揄される事もある、姫路は「白鷺城」を訪れる。

 シラサギが羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴。大天守は、1609年に建築されたもの。2015年3月27日に改修を終えた。塗り直した漆喰には防かび剤が混ぜ込んであるが、数年で真っ白な姿ではなくなるそうだ。

 建築物は国宝や重要文化財、城跡は国の特別史跡に指定されている。この他に、ユネスコの世界遺産に登録や、日本100名城などに選定されている。











「菱の門」

 櫓門(やぐらもん)と呼ばれる型式の二の丸の入口を固めた門で、両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋のあることから、この名前が付いている。門全体に安土桃山時代の様式を残しており、城内で最も大きな門。





「ろの門」





この階段は「暴れん坊将軍」のオープニングで使われていたと、よそのガイドさんが話していた。
見たことがあるような。確かに絵になるわ。





ここから来た敵に鉄砲を打つ!





「にの門」 入ってきた敵を欺くように城内は迷路のようになっている。





侵入してきた敵の勢いをそぐ目的で、頭を下げねば通れぬように低く作られている。





沢山の門をくぐって近づいてきた。





「ほの門」を内側から
右端に写っているのが、楽しく説明していたガイドさんで、ずうずうしくついて歩いた。





「水の二門 」





「水の三門 」











やっと大天守に到着!





階段を上がって





 内部

































































「東大柱」東大柱は大天守の5階まで一本柱で通されてる。

 天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断され、檜を継いだのだそうだ。

















最上6階に設けられている御社に置かれた一升瓶、阪神・淡路大震災の時にも倒れなかったのだそうだ。











「武者隠し」

















登りと下りは通路が異なり、スムーズに見学できた。





「備前丸」より撮影
修復終了後は見学者が凄い数で、何時間も待つこともあったそうだが、今回はそれ程でもなかった。





「備前門」 右側に使われる大きな石は「石棺」





築城の際、石不足のため当時姫山にあった古墳の石棺をこの石垣に使用した。











「太鼓櫓」





播州皿屋敷のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたと言われる「お菊井戸」





しゃちほこが3代飾ってあって、これは明治時代の物





昭和の修理の時にこしらえたもの





平成の修理で今飾ってあるのと同じもの。形が違う。
窯元に、天守に、ここにと4体ある。1個600万円だってガイドさんが話していた。





「ぬの門」





大天守の見学を終え、まだ時間があったので「西の丸」へ
地図の★マークからの撮影で一番気に入っている。

天守閣の西面が際立って見える庭園で、南門跡近くには出陣する武者を集め、隊を編成した武者だまりがある。





西の丸長局(百間廊下)





千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられる。





























見学はお終い。





記念撮影をパチリ!











帰りの飛行機はJAL岡山19時発、羽田20時20分着の便で





晴れ女の力発揮できず、イマイチの天気の旅となった。まあ良いか!







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