2015/5/15(金)

 
今日は晴れ。

 本当はポルトガル旅行は明日16日からだが、明朝5時35分に羽田空港に集合の為、「ホテルJALシティ羽田」に前泊することになった。





何時ものようにナナをナナの実家(おばあちゃん、ママ、姉妹がいる)に預けに行く。





犬の嫌いな人もいるので、空いた最前車両に乗る。





「ホテルJALシティ羽田」





空港まで無料送迎バスが出ていて便利。





ちょっと狭いが、我が家にしては高級なホテルで、設備も整い文句なし。








 2015/5/16(土)

 
今日は雨。

 天気予報によると、ポルトガルの天気は良さそうだけど、出国時の羽田の天候は雨。今回の旅行はJTBの格安ツアー「旅物語」の「羽田発着!びっくりポルトガル 8日間」。私たちが参加した5月出発は159,800円で、オプションなし全食事付きで、未だかつてない格安。





早朝5時でもこの人出で驚く。





雨の羽田、航空会社はエールフランスで、初めて。





さすがフランス、機内安全ビデオがあまりにお洒落なのに驚く!
(2015年4月以降、全ての長距離線及び中距離線機内で導入)





普通最初の機内食が豪華なのだが、朝一だからか?パンばかり。(美味しかったが)





最初の映画「ベイマックス」を観る。やはり評判通り面白い!





観終わってこの辺りを飛行中。





新しいモニターで、飛行状況もいろいろ見られる。





こんな感じにも





2本目の映画「REDリターンズ」を見る。ブルース・ウィリスに外れは少ない。






2本観終わってこの辺り。





機内食メニューが配られる。





おつまみと共にドリンクのサービスがあった。





3本目はずっと見たかった「ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密 」。とても面白かった。





2回目の機内食、私が肉で(味は悪くない)





モモパパは魚





機内食を食べ終わってこの辺り。





4本目に見たのが邦画「トワイライト ささらさや」。これがなかなか面白かった!





映画を4本も見て、長かったと言えば長かったが、退屈しなかった。





おおよそ12時間ちょっとで、フランスはパリ「シャルル・ド・ゴール空港」に到着!
このツアー第1回目とあってか?ベテラン添乗員で心強い感じ。メンバーは高年齢者が目立つ。





ここを経由しポルトガルに





フランスとの時差は7時間。





トランジットは3時間半。





ポルトガル行きの飛行機は小さ目、約2時間半でリスボン。機内軽食が出た。(美味しいサンド)





日本と時差が8時間で、午後5時30分やっとリスボンに着いた!





空港近くのホテルに着いたが、外はまだ明るい





なかなか綺麗な部屋だわ。





食事が出た。スープは飲めたがミートボールのパスタはあまりに不味くて写すに値しない。
大体夜着くヨーロッパで、夕食が出ることが珍しい。








 2015/5/17(日)

 
今日は晴れ。

 今日からポルトガル観光の始まり。





 ポルトガル共和国、通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 (ウィキペディアより)


 711年に北アフリカからイスラム、アラブ勢力のムーア人がイベリア半島に侵入し、約6世紀にわたる支配がはじまる。キリスト教に寛容だったことから政治的には安定していたが、キリスト教徒を中心にイスラム勢力に反発するレコンキスタ(国土回復運動)が718年にはじまる。(スペインでも同じ感じ)  テンプル騎士団も参加し、ポルトガルの基礎を創ったドン・エンリケはドロウ川以北とテージョ川以南を奪回!その息子アフォンソ・エンリケスもさらに推し進め、1143年ポルトガル王国を建国し、1249年にレコンキスタが終了する。

 その後エンリケ航海王子により海外進出をはじめ、マヌエル1世の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマが1798年インドへの航路を発見し、香辛料を手に入れてポルトガルに巨万の富をもたらす。1519年にマゼランが世界一周を果たしのは皆の知るところである。

 しかしながら大航海時代の栄光は長くは続かず、国の勢力は次第に弱まり、スペイン・ハプスブルグ家の支配に甘んじることとなる。スペインの約60年の統治の後、1640年にジョアン3世がスペインからの独立を果たし、植民地であったブラジルで大量の金が発見され財政が潤い、政治的にも安定する。

 1807年にナポレオン軍の侵攻によって、再び混乱期を迎える。3度にわたるフランス軍の侵攻を受け、当時の王家一族は植民地のブラジルに逃亡。(この時ブラジルの独立を許可する)この後イギリス軍にも支配されるが、1820年に自由主義革命が勃発し、臨時政府がリスボンに樹立される。逃亡していたジョアン6世が帰国するも、その死後内乱状態が続き、1910年共和制成立により王政は終焉する。(ああ歴史の勉強になった)






 今日はKリスボンの北西に位置する@世界遺産の街「シントラ」、Aユーラシア大陸の最西端の「ロカ岬」、B白い村「オビドス」、C世界遺産の「アルコバサ修道院」を観光する。





パンにハムとチーズを挟んで朝食を頂く。ここでは暖かいメニューはなかった。





宿泊ホテル「ホリデイ イン エクスプレス リスボン エアポート」は、まあまあのホテルだった。





ホテル前の工場の入り口で飼われていたシェパードは、人懐こそうだった。





さて最初の観光は文化的景観の美しさから世界遺産に1995年に登録された@「シントラ」。

 7〜8世紀に築かれたムーア人の城が町の起源とされる。1147年にポルトガルに併合されて以降は、夏の避暑地として王侯貴族に愛され、文化の中心地として栄える。英国詩人バイロンが「エデンの園」とたたえた町。





「王宮」

 ムーア人の残した建物を礎とし、13世紀末にディニス王が王宮の原型を整備する。14世紀初頭、ジョアン1世が大改築工事を行い王宮の基礎を築いた。その後も歴代王によって趣向を凝らした増改築を繰り返し、多様な建築様式が渾然一体となった複合建築が完成した。





正面階段を登り入って行く。時間が早くてまだ入館時間前だった。





この縄模様は何とかって言ってたが忘れた。





美しいブドウの葉の「アズレージョ」

 「アズレージョ」とはポルトガル建築の内壁、外壁を問わず敷き詰められる装飾タイルのことで、室温管理の機能もあわせ持つ。15世紀末にスペインを訪れたマヌエル1世がアルハンブラ宮殿などのイスラエル建築に魅せられ、タイルを大量輸入したことが始まりらしい。(確かにアルハンブラ宮殿にも美しいタイルがはられていた) 16世紀よりポルトガル独自のタイルが作られ始め、当時は教会や王宮を飾るものだったが、黄金期に民間の邸宅建築にも使われるようになった。





「白鳥の広間」

 舞踏会場として用いられた大広間。ジョアン1世が、英国に嫁いだ娘カタリーナの幸福を願い造らせた。生涯伴侶を変えず夫婦円満の象徴とされる白鳥27羽が天井に描かれている。





27羽の白鳥はすべて異なる構図で描かれている。





何と愛らしい!





中庭から厨房の煙突を見る。良く晴れて良かった。





「カササギの間」

   天井に描かれているのは136羽のカササギ。口には「POR BEM」と書かれた布をくわえている。これは、侍女にキスをしているところを王妃に見つかったジョアン1世が、「POR BEM」=「善意でキスしたのだ」と言い訳したことに由来している。王妃は何も言わなかったそうだが、噂は女官たちの間に瞬く間に広がってしまい、王は、「おしゃべり」の象徴であるカササギを侍女の数である136羽描かせ、その足には王妃の出身であるランカスター家の紋章バラの花を掴ませた。





136羽のカササギ





「POR BEM」=「善意でキスしたのだ」ってね〜?ユーモアタップリの王様だわ!





セバスチャン王の寝室





「カエサルのタペストリーの間」





食器など調度品が展示されていた。





持ち運べる箪笥





「紋章の広間」





ドーム天井一面に16世紀の王侯貴族の紋章が掲げられている。





壁一面の見事なアズレージョは18世紀製





貴族以外に、航路開拓の功績を称えられた「ヴァスコ・ダ・ガマ」の紋章もある。





「紋章の間」から見える美しい景色。





「礼拝堂」 天井はムデハル様式。

 ムデハル様式とはスペインの建築様式で、レコンキスタの後、残留イスラム教徒の建築様式とキリスト教建築様式が融合したスタイル。特徴は建物の壁面に幾何学文様の装飾を施している。









壁は神を表す鳩が描かれている。





「アラブの間」 アズレージョは国内に存在する最古のもの。





「厨房」 火災を警戒し、他の部屋から極力離れた場所に増設された。





鍋やかまどが見られる。





33mの円錐型の2本の煙突を下から覗く。





「マヌエル王の間」 イタリアのムラーノ製の豪華なシャンデリアがある。





美しい細工の鏡 この部屋で王宮観光はお終い!





外には観光地らしい馬車が





可愛いお目目





美しいシントラの街並み

岩山の上に造られた要塞は8〜9世紀頃にムーア人により造られた山城。





ここで伝統の菓子を頂く。

 カステラやボーロなど日本でもおなじみのお菓子の故郷であるポルトガルには玉子と砂糖、小麦粉を使った素朴でシンプルな焼き菓子が沢山ある。手に持っている向かって左がいわゆる「エッグタルト」ポルトガル語では「パステイシュ・デ・ナッタ」。右が「パステル・ドゥ・アメンドア」アーモンドを使ったお菓子。このエッグタルトを食べにポルトガルに来たと言っても過言でない。しかし、美味しいのはリスボンの有名なお店。ここは普通の美味しさ。





他に有名なお土産として陶器がある。チーズを頂くねずちゃんが可愛い!





なななんと50ユーロ! 日本円でおよそ7千円、見るだけにしよう。





バスの中から、千年以上天然水が湧き出る「ムーアの泉」を撮影。



 次の観光地A「ロカ岬」はシントラから西に10キロあまり。ユーラシア大陸の最西端に位置する。




ロカ岬の観光案内所で黒いワンコに会う。ここらのワンコはつながれてない。賢いワンコと見た。





さすがたくさんの観光客(バイク族)がいる。





北緯38度47分、聖経度30分、ヨーロッパの西の果て。





高さ144mの断崖絶壁がつきだしている。





「ここに地終わり、海始まる」

岬の突端に立つ十字架に、詩人「ルイス・デ・カモンイス」による一説が刻まれている。



 次に訪れたのは、北に車を走らせBの「オビドス」。山間のブドウ畑の丘の上にある、中世の城壁に囲まれた小さな白い街。その美しさから「谷間の真珠」と呼ばれる。

 紀元前300年頃、ケルト人により街が造られ、その後1288年にディニス王とイザベル王妃が婚礼旅行として訪れた際、王が結婚祝いとして街を王妃に贈り、その直轄地とした。以降1833年まで代々の王妃の街となった。





オビドスの街は城壁の中





観光用にこんな車も用意されている。









「ポルタ・ダ・ヴィラ」

 街の南側にある二重構造の城門で、1380年に完成。オビドスの聖人、聖ピエダデに捧げられだ祈祷室があり、聖書の場面を描いたアズレージョで覆われている。





白い街は、青い空に映え美しい!











可愛い屋台





カラフルな民芸品が白壁のアクセントになっている。





お洒落だね〜





「サン・ペドロ教会」





絵になるね〜





ここで昼食を頂く。





ポテトサラダ 初めてのレストランの食事。うん、なかなかイケる!口に合う!





タコのリゾット ちょっとしょっぱめの味付けだが、これもなかなか美味しい!





ポルトガルのカステイラ、日本のより美味しい位! ポルトガル料理は日本人の口に合うようだ。





サンタマリア教会の前に立つ「ペロウリーニョ」(刑罰用の柱)に立って。











メインストリートの「ディレイタ通り」











ディレイタ通りを反対側から見る。





さあ城壁に登ろうか!





街を囲む城壁から街並みを一望できる。





高い所が苦手なモモパパも登ってみるが





この景色を見て気が済んだのか? 「この先の細い道は危ない!」





と下りてしまった。





私は「ここです、ここ、ここ!」





周りはのどかな田園風景





確かに細いこの道を通って(風の強い日は歩けないそうだ)





城壁の南端に到達。 おおビューティフル!





比較的新しいものだが、オビドスには水道橋が引かれている。オビドスとはここでお別れ。



ポルトガルは小さな国だから、今日はこれで4個目の観光地。C世界遺産「アルコバサ修道院」のあるアルコバサに。




アルコバサは、オビドスからさらに北、アルコア川とバサ川の挟まれた小さな町。






 アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)が始祖となったポルトガルだが、ローマア教皇は建国を認めず、1152年教皇の信頼の厚いシトー派(フランス)の修道院にアルコバサの街を譲渡した。






何やらお祭りをやっていた!





世界遺産 「サンタ・マリア修道院」 いや〜絵葉書みたい!





正面ファサードは18世紀に改築されたバロック様式









 バロック様式とは1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。





内部はゴシック様式(12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式)が残る。
聖堂の身廊は奥行きが106mもある。





後ろを振り返る(入り口)





「主礼拝堂」

 アフォンソ1世がイスラム軍に勝利したことに感謝して1153年に建造された修道院。「質素、簡潔」を旨とするシトー派の精神が息づく、飾りを排し簡素な造りが特徴。





主祭壇右に置かれた「ペドロの石棺」





主祭壇左に置かれた「イネスの石棺」

 カスティーリャ王国の王女コンスタンサと政略結婚したアフォンソ4世の息子ペドロ1世は、王女の侍女イネスに恋をする。コンスタンサの死後ペドロはイネスを側室に迎えたが、カスティーリャ王国の圧力を恐れた王と重臣がイネスを暗殺してしまう。ペドロは王位継承後、暗殺に関わった重臣を処刑し、イネスの遺体を墓から掘り起こし、正式な妻として教会に承認させた。主祭壇を挟んで二人が向かい合えるように置かれている。まあ、なんてロマンチックなお話!





「王の間」





1755年のリスボン地震で破壊されて首がなくなってしまったものもある。





修道院設立の物語を描いているアズレージョが美しい!











中庭を囲むマヌエル様式の回廊

 「マヌエル様式」とは、大航海時代の繁栄を象徴するポルトガル独特の建築・芸術様式で、その様式名は、インド航路発見し海外進出事業を押し進め、在位中にアフリカ、アジア、新大陸にまたがる一大海洋帝国を築いたマヌエル1世(1469-1521)の名に由来している。





外に出ることを許されなかった修道士は中庭で憩った。











「食堂」





修道士の太り過ぎを検査する狭い入口がある。





厨房の大きな煙突





下から覗いて撮ったら





こんな感じ





アルコア川の流れを引き込んだ厨房の水場





踏まれるほど良いということで、通路に造られたお墓(偉い人らしい)





お祭りでお店も出ている





2ユーロでビワを買う。すっぱいのもあったけれど美味しかった。(他の人と半分こした)

ここでアルコバサとはお別れ。





今日の宿はDナザレ。





ホテルは「ホテル ダ ナザレ」(Hotel Da Nazare) 部屋からの景色。





室内はまあまあ綺麗。





夕食まで時間があったので街に出て、小さなスーパーマーケットに行く。





ナザレの民族衣装のおばあちゃん 紺でまとめてそれはお洒落な人だった。(ポーズもカッコイイ!)

 ナザレの伝統的民族衣装は、現代にも伝わっている。既婚の女性は、7枚重ねの短いスカートに刺繍入りのエプロン、頭に巻いたスカーフとスリッパ。未亡人は、黒づくめの服装。(本当に黒づくめの人が沢山いた) 男性も伝統衣装があるらしいが、着ている人は見掛けなかった。女性もお年寄りばかりで、若い人は祭りの時くらいしか着ないらしい。





ナザレのビーチ

 ナザレは美しい白浜の海岸線を持ち、海洋民族の古代フェニキア人によって拓かれた素朴な漁師町。夏はバカンスで世界中から客が訪れるという。





綺麗な海がすぐそこに





お店の看板ワンコ





夕食はホテルで 生野菜のサラダ





鶏肉のソテーとポテト これもなかなか美味しかった!





プリン





ホテル最上階の食堂からは綺麗なサンセットが見られる。








 2015/5/18(月)

 
今日は晴れ。




 今日は観光2日目。先ず宿泊地のDナザレを散策する。ナザレの海岸の北に位置する高台シティオ地区はケーブルカーでも行ける。





我々はバスで近くまで行き、少し登る。





 断崖の上にあるシティオ地区からはナザレの街が一望できる。朝一番は霧で霞んでいることが多いと聞いたが、わりかしスッキリ見えて良かった。





シティオ地区は広場があって





「ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会」がある。開いている時も閉まっている時もあるというが、開いていた。





バロック様式の美しい教会で、バスコ・ダ・ガマも航海の前後に訪れたという。





開いているか閉まっているか分からない小さな町の教会が、こんなに綺麗だなんて、





宗教の力は凄いものだ。





アズレージョも美しい!





ケースに入っていた聖母像



 と、ここでナザレを後にし、次の観光はナザレから約32キロ(近い!)のEバターリャ。町の名前の意味は「戦い」で、スペインからの独立をかけたカスティーリャ軍との戦いに勝利したことに由来しているそうだ。黄金期の幕開けとなったアヴィス朝誕生の地。





世界遺産 「勝利のサンタ・マリア修道院」は重厚感あふれるゴシック様式

 戦いの勝利を祈願した聖母マリアに感謝して、「勝利の聖母マリア修道院」が国王ジョアン1世の命で建造された。 修道院建設は14世紀から16世紀の初頭まで続けられたが、その間にポルトガルの国王は7人が在位し、建設には15人の建築家が携わった。

 膨大な人的、物的資源が投入されると同時に、バターリャ修道院の建設を通して、ポルトガルは国内では未知であった建築技術、芸術様式が導入され、ポルトガル・ゴシックとマヌエル様式が混在した独特な建物になっている。





西のファサード





左右に12使徒の彫像、入口の上には聖書に登場する王や天使、聖人、預言者など78体が飾られている。





中央はキリストと4人の福音書記者が飾られている。





@教会の身廊はシンプルなゴシック様式





1480年から1515年の間、建築を指示した「マテウス・フェルナンデスの墓」





ステンドグラス











A「創設者の礼拝堂」の中には、ジョアン1世と王妃フィリパ・デ・レンカストレの墓がある。





生前仲が良かったのか?手をつないでいる。





エンリケ航海王子の墓





中央の8本の支柱によって控え壁が設けられた八角形の空間に分けられる。





アップ





ジョアン1世の子供や孫たちの墓





B「ジョアン1世の回廊」





中庭





マヌエル様式の狭間飾りが素晴らしい!





アップ





C参事会室

第一次世界大戦で亡くなった2人の無名の戦士の墓を守る形でガードマンが立っている。






このステンドグラスはキリストの苦難の場面を表しているそうだ。





建築を指示した「フュゲット」自身と言ったような言わなかったような。





衛兵の交代に合わせての見学だったようだ。





D「洗盤」 洗盤はキリスト教の礼典の一つである洗礼の時に用いる物らしいが定かでない。





Eアフォンソ5世の回廊





アフォンソ5世の回廊から一旦外に出てF「未完の礼拝堂」に





「未完の礼拝堂の入り口」 連続アーチと細かい装飾は見事!





「未完の礼拝堂」にあるのは壁だけで天井はない。





マヌエル様式の最高傑作。





かたつむりが珍しい





 礼拝堂の中にある、ここの建築を進めたドゥアルテ1世とその妻レオノール・デ・レオンの墓







 添乗員に「なぜ未完のままなのか?」と聞いたところ、「ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世によって建設が始まったが、100年ほど工事が続けられたころ、リスボンのジェロニモス修道院の建設でこちらの資金が足りなくなり、未完に終わった。」ということだった。「未完だったから、今こうやって見に来る人が多いんでしょう。」という話で、なるほどとも思ったが、ちょっと違うかな?とも思った。





世界遺産 バターリャ「勝利のサンタ・マリア修道院」とはここでお別れ。





ポルトガルは、お土産物としてコルク製品が有名で、値段は革製と同じ位。
「買おうかな〜」とおもったがやめにして





この可愛い焼き物を購入した。13ユーロ位だったかな?





バターリャのワンコ





名前は分からないが、バターリャで咲いていた花。



 次の観光はバターリャから西に約16キロ(これまた近い)のFファティマ。ファティマは聖母マリアの奇跡にまつわる伝説の地。ファティマの奇跡とは、1917年5月13日、羊番をしていた3人の子供の前に聖母マリアが現れ「これから5カ月間、毎月13日にここで平和を祈る」と告げ、聖母は最後の10月13日に子供たちの前に再び現れ、この地に礼拝堂を建てるように告げたというもの。




羊番をしていた3人の子供











ひざまずいて、祈りながら歩く人がいた。





30万人以上を収容できる巨大な聖地





「出現の礼拝堂」





「バジリカ」 





3人の子供の1人は97歳まで生き、修道女として働いた。





2人の兄妹は出現の後まもなく病で亡くなった。(予言の通り)











ファティマのワンコ





ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) の像





屋内の礼拝堂もあった。















 


バスの窓から見たこともない形の虹を見た。ファティマの奇跡? うそうそ!





ファティマにある修道院の経営するレストランで昼食を頂く。





ワインは飲み放題の大盤振る舞い!





キャベツのスープと言われたが、実はケールらしい。日本に渡ったのだそうだ。悪くない。





干しタラの卵焼き 干しタラはポルトガルのソウルフードだそうだが、美味しかった。





中身は忘れたがコロッケ 美味しかった。





生野菜のサラダ





チョコのムースは甘かった。





レストランにも修道院らしいアズレージョが「最後の晩餐」





韓国の観光客は「キムチ」持参だった。



 さて次の観光はファティマからさらに西に約31キロのGトマール。12世紀、レコンキスタで活躍したテンプル騎士団の本拠地で、世界遺産の「キリスト教修道院」として今に受け継がれている。





 トマールの修道院は城壁で囲まれているが、勃興したばかりのポルトガル王国の対ムーア人への防波堤の役割を果たしていたそうだ。





城壁の門をくぐって中に入る。





振り向いてみる





するともう一つ城壁があった。





城壁の中は結構広い。

 





 キリスト教修道院 は1160年に、テンプル騎士団によって建設が開始された。ポルトガル最大規模を誇るシトー派の修道院で、400年にもわたって建設された為、ロマネスク建築、ゴシック建築、ムデハル様式、マヌエル建築、ルネサンス建築といった多様な建築様式が見られる。





テンプル騎士団が残した16角形の円堂が目を引く。





振り返ってみる。





さて入ってみよう!





「墓の回廊」









美しいアズレージョ





回廊に沿ってチャペルがあり、天井は高くて見事な装飾。

















ムデハル様式のテンプル騎士団の円堂の入る。





外側は16角形だが内部の洗礼堂は8角形の構造になっている。





細かな壁画が美しい。











壁、天井はキリストの一生涯を描写した絵画。





テンプル騎士団の紋章





抜けているところは、ナポレオンが持って行ったのだそうだ。

















ルネッサンス様式の「ジョアン3世の回廊」





2階の回廊から





キリスト騎士団の集会場にあるマヌエル様式の大窓を見る。





水はけの穴が開いていて





外はこんな細工になっている。





下から見た大窓





近寄って見る。





「ジョアン3世の回廊」











食堂





食料倉庫





増築された部分





台所にあるパンなどを焼く窯











ぐるりと一回りして大窓のところに出てくる。





日本ではあまり見かけない可愛いピンクの花。





ここでキリスト修道院の観光はお終い。外にはこじんまりしたお果物屋が。











今日の宿は、北にバスを約245キロ走らせポルト。途中のパーキングで一休み。





ポルトでのホテルは「ホテル ベタ ポルト」
綺麗なホテルだが、水は漏れる、電気はつかない、ビールは冷えていないと改善の余地大!





近所のスーパーに行ってみる。





ポルトガルでよく食べられる「干しタラ」が売られていた。





鮮魚売り場





夕食はホテルで、ひよこ豆のサラダ





チキンソテー





プリン

食事はまあまあ美味しかったが、ビールが冷えていない、ガス入り水が凍っている、といただけない。








 2015/5/19(火)

 
今日は曇り後晴れ。観光3日目はHサンティアゴ・デ・コンポステーラ。










ホテルでの朝食。食べすぎては太ってしまうので、このくらいにしておかねば。





宿泊したホテル





ポルトから北に約230キロ、北スペインはHサンティアゴ・デ・コンポステーラへ。





昨日まで暑いくらいだったが、北に位置することもあって少し寒いようだ。


 ポルトガルのツアーはざっと4種類あって、スペイン全部とポルトガル、スペインの北方面とポルトガル、ポルトガルのみ、ポルトガルと北スペインにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ。

 私たちが一番最初にヨーロッパ旅行をしたのは2011年9月10日〜17日の「中央ヨーロッパ」だったのだが、その時の添乗員の中谷光月子さんがあまりにも素晴らしく、旅の終わりの頃、次の旅行先を探していた私は「中谷さんは世界中旅なさっていらっしゃるようですけれど、何処が一番好きですか?」と聞いてみた。

 彼女は「どこも素晴らしいですよ!」と言ってちょっと考えて、「スペインです!」と答えた。彼女の経歴を聞いたり調べたりしたら、スペインに魅せられ、「サンティアゴ巡礼へ行こう!: 歩いて楽しむスペイン」という本まで出しているのを知った。この本も買ったのだが。この本を流し読み(じっくり読むには熱意がいる為)したところ、沸々と「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」に行ってみたくなった。

 しかしである、スペイン本土をめぐるツアーに、このサンティアゴ・デ・コンポステーラが入っていないのだ! キリスト教に縁の薄い日本人にはマイナーなのだろう。マドリードから離れているのも一因なのかもしれない。その証拠に、旅のガイドブックで有名な「地球の歩き方 ガイドブック スペイン」にも、たった1ページしか書かれていないのがこの度分かった。仕方がないので、まず2012年9月にスペインの観光を先に済ませ希望をつないだ。

 巡礼に行こうと思えば行けなくもない。実際に中谷さんはご自分で毎年『巡礼のツアー』も組んでおられる。が、旅行代金が488,000円 と、私には高め。モモパパに言っても鼻で笑われる。 「何時かは行きたいサンティアゴ・デ・コンポステーラ」が今回叶うことになったのだ!





「サンティアゴ巡礼へ行こう!: 歩いて楽しむスペイン」 今は改訂版になっている。





 サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の記録は、951年のものが最古だそうだ。サンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。

 ヤコブの遺骸の発見当初、ガリシア地方に限定されていたサンティアゴ巡礼は、次第にピレネー以北に拡大され、11世紀にはヨーロッパ中から多くの巡礼者が集まり、最盛期の12世紀には年間50万人を数えた。また、巡礼は当時イベリア半島を支配していたイスラム教国へのレコンキスタとも連動し、ヤコブはレオン王国などキリスト教国の守護聖人と見なされ、キリスト教国の兵士は戦場で「サンティアゴ!」と叫びながら突撃したそうだ。そこでキリスト教国の諸王は、巡礼路の整備や巡礼者の保護に努めたのだそうだ。

 宗教改革前の16世紀にはプロテスタント諸国が偶像崇拝を禁止したことや、カトリック内部でも聖ヤコブの様な諸聖人崇拝からマリア崇拝に移行したこともあり、サンティアゴ巡礼は大きく減少することになる。スペインの内乱等 もあり、サンティアゴ巡礼が本格的に復活したのは1980年台にフランコ体制が崩壊した以降になったというのだから、ほんの最近のことともいえる。

 現在、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼者は毎年20数万人に上る。巡礼者の多くは徒歩。自転車を使う人や、少数ながら中世のように馬やロバを使う人もるそうだ。うん、テレビでも見た。信仰のためだけでなく、観光やスポーツ、単なる目標達成のために歩く人もいる。(私もこの感覚)

 巡礼者は巡礼者の身分証明となるクレデンシャル(巡礼手帳)を持つ必要があり、アルベルゲ等の宿泊施設に泊まると、巡礼手帳に公式のスタンプが押され、集めたスタンプが巡礼の証明となる。巡礼者はさまざまな道をたどるが、人気があるのは「フランス人の道」で、出発地としては、フランス側のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーとスペイン側のロンセスバージェス。伝統的なフランスの町(ル・ピュイ、アルル、トゥールなど)から出発する人や、さらに遠くからフランス内の道を目指す人、中世にならって自分の玄関から出発する人もいるそうだ。

 ピレネー山脈からすべて歩くと780〜900kmの距離で、1日平均20〜25km歩いても1か月以上掛かるらしい。いやはや簡単なことでない。しかし、この巡礼証明書がもらえる条件は、徒歩で100km以上、自転車で200km以上だそうで、100キロ歩く人が断然多いと話していた。いずれにしても大変なことだ! サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道は、その歴史的意義より、全行程が世界遺産に登録されている。この旅の参加者に、800キロ歩いたことがあり、またこんど歩く予定の人がいて、沢山話を聞かせて頂いた。





先ず巡礼の道を訪れる。





「歓喜の丘」
「ああ、あそこがサンティアゴ・デ・コンポステーラか!あと少しだ。」と言っている。





お約束のポーズ





バスセンターから街の中心地まで歩いて行く。





 サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペイン、ガリシア州、ア・コルーニャ県の都市で、ガリシア州の州都。コマルカ・デ・サンティアーゴに属する。ガリシア統計局によると、2012年の人口は95,671人で、州内ではビーゴ、ア・コルーニャ、オウレンセ、ルーゴに次ぐ5番目の人口規模の街である。 (ウィキペディア)





巡礼の最終地点のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂





18世紀のバロックスタイル。ファサードは栄光の門(修復中で見られなかった)を覆い隠すようにできている。





大聖堂の西にオブラドイロ広場が広がり、到着した巡礼者がここに集まる。





サンティアゴ巡礼のシンボルのホタテ貝、到着できた人はここを踏むのだそうだ。

 ホタテ貝は中世から巡礼のシンボルとなっていて、巡礼者は巡礼の証としてホタテ貝をぶら下げて歩いている。諸説はいろいろあるが、ホタテ貝をお皿代わりに食べ物を恵んでもらったことから来ているのが有力らしい。





オブラドイロ広場に北側には15世紀にカトリック両王によて建てられた旧王立病院。
1954年からパラドールとしてホテルになっている。





オブラドイロ広場に南側には19世紀に建てられたサン・ヘロノモ神学校。現在サンティアゴ大学のオフィス。





オブラドイロ広場に西側には16世紀の建築物、ラホイ宮殿。 現在はサンティアゴ市庁およびガリシア地方政府首長館。





上に聖ヤコブが馬に乗ってムーア人と戦っている像がある。





観光用の乗り物があった。





先ずは昼食を頂く。お店は「San Jaime」
口コミで、サンティアゴ デ コンポステーラのレストラン432軒中64位 のお店らしい。





タパス(小皿料理)ということで色んな種類が少しずつあった。





生野菜のサラダ





コロッケ





パイ どの料理も美味しかった!





カステラのデザートも美味しかった。さすが64位!





「Colexio de Fonseca」ってなんだっけ?わざわざ行ったんだから何かだと思う。
何しろガイドブックにも載ってないから調べようもない!





中庭があってこんな感じ





フラメンコ通りを歩く。勉強せずに行っているから、何処に向かっているか分かってない。





可愛いい人形のあるお店があって、中に入ってみたかったなあ〜





物乞いさんの連れていたワンコ2匹。犬までかったるそうか?





洒落たレストラン





アラメダ公園近く、学生たちが集まっていたが、どうやら高校らしい。
ポルトガルでは子供のころは可愛いが、この年頃はギャングのように手に負えなくなるらしい。(添乗員談)





アラメダ公園内 「二人の婦人の像」 アラメダ公園をいつも仲良く散歩していたらしい。





公園内は緑にあふれている。





アラメダ公園から見る大聖堂が素晴らしいといわれている。





「ラボン(スペインの作家)の像」  よくここでカテドラルを眺めていたそうだ。





アラメダ公園から大聖堂に戻る途中お洒落なワンコに会った。





サンティアゴ・デ・コンポステーラ市街地図





街中はこんな感じ





帽子屋さん(日本にはこんな店はなくなった)





巡礼者が歩いていた。





写真屋さんの店頭に可愛い赤ちゃんの写真が、ポルトガルの赤ちゃんは本当に可愛い!





先ほどの巡礼者は、歩き終えた「巡礼証明書」を貰いに来ていたのだ。意外に若者が多い!





大聖堂にあるボタフメイロ(巨大振り香炉)のレプリカ





さてここから大聖堂の観光





先ず大聖堂南側のプラテリーア広場で
星を掲げる女神の噴水が迎えてくれる。大きな時計台がある。





再びオブラドイロ広場に戻り大聖堂外側を時計回りに見て回る。





大きなワンコ





大聖堂北側の「天国の門」 どうやらどこの門からでも入れるようだ。





大聖堂北側インマクラダ広場の反対側には





サン・マルティン・ピナリオ修道院











大聖堂東側のキンターナ広場。その東側にあるサン・パイオ・デ・アンテアルターレス修道院。





大聖堂東側(後陣)の立派な「聖なる門」

 聖ヤコブ(サンティアゴ)の祝日である7月25日が日曜日に当たる年が「聖年」とされ、サンティアゴ大聖堂の後陣にある「聖なる門」が開かれ、この門を通ったものはすべての罪が赦されると言われている。普段は開いていない。





巡礼者姿の聖ヤコブ(サンティアゴ)





覗いてみるとこんな感じ。





「聖なる門」の両脇に、恐らく12使徒が掘られているのだと思う。

 12使徒とはペテロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ (ユダ) 、熱心党のシモン、イスカリオテのユダの 12人。 レオナルド・ダ・ビンチによる「最後の晩餐」の描かれている人達のことだと思う。





「聖なる門」の左にいつでも入場できる門がある。先の時計台の下。











大聖堂を一周して、南側プラテリアス門より、いよいよ中に入る!





向かって右手が主祭壇。正面が「天国の門」。





 サンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂で振られるボタフメイロ(大香炉)の儀式は、元々は長い道を歩いてきた巡礼者達の体臭を緩和する為だった。特別な行事や、依頼があったミサの時のみ振られるボタフメイロで、現地に行っても見られるかどうかは分からない。実際はこんな感じ。この香炉が大きく揺らされ、大聖堂内に香りが満ちる。





借りた写真






 主祭壇の右側に回ると、正面ステンドグラスの下、緑に見えるのが「聖なる門」の内側なのだが、教えて貰わなかったのか?写真に収めてなく残念!





こんなのや





こんなの撮ってる場合じゃなかった!





主祭壇の上部





主祭壇は17世紀バロックの装飾が施さている。











右手に巻物を、左手に杖を持つ聖ヤコブ

主祭壇にある聖ヤコブを抱くことが出来る。
 



後ろから聖ヤコブを抱くモモパパ





後ろに志を入れる箱があったが、ほとんどの人は入れてなかった。











祭壇下の半地下に通じる入り口から下りると





19世紀に作られた、銀製の聖ヤコブの棺がある。





ここにもシンボルのホタテ貝が





見事な天井の細工





脇にあった祭壇











これで大聖堂とはお別れ





また来ることがあるかな〜 恐らくないな〜





と、つぶやきながサンティアゴ・デ・コンポステーラの街を後にした。





ポルトに帰る道すがら

 つまりこう言う事だ、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂が素晴らしいんじゃなくて、巡礼の道を歩いて辿り着いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂が素晴らしいということだ。私はバスで簡単に行ったのだから、それ程の感激がなくても仕方がない、そうだ仕方がない。





ホテルに着いて夕食を頂く。恐らくカボチャのスープ





干しタラの料理





リンゴのデザート 皆美味しかった。(それにしても料理のピントがどれも合ってない!)








 2015/5/20(水)

 
今日は晴れて最高に暑くなるサンバイザーと長袖が必須。観光4日目はIポルトとJコインブラ。











朝早くに目が覚め、ホテル(ポルト近郊)の周りを歩いてみる。アパートなのだが





反対側はこんな感じで一体如何なっているのか?と思ったら、日よけシェードが閉まっているようだ。





日本では珍しいフランスはルノーの「キャプチャー インテンス」という車
カッコいいなあ〜と思って調べたら、日本では¥3,855,000〜だそうだ。





早朝の為、歩いている人もいない。





美容院か理容院





スーパーマーケット (完全防備!)





ポルト近郊(中心から5キロくらいかな)の為ちょっと高級な家もある。





朝食は昨日と同じホテルなので代わり映えなし。サンドイッチが一番食べやすい。





ポルトは小さな町の為、車で直ぐに到着。











後から来るBサン・ベント駅の脇を抜け





先ずは一番の景勝地、@ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区へ

 ドロウ川南側のエリアで、ワインの製造輸出業者が集まっていて、ドロウ川上流で生産されたポートワインはここへ運ばれ、熟成されてから世界各地に輸出される。対岸の世界遺産旧市街地歴史地区(1996年登録)を一望できる。

 右手に見えるのは「ドン・ルイス1世橋」。ドン・ルイス1世橋は幅8mの2階建て構造になっている。上層の長さは395mで、下層の長さは174mである。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっている。(ウィキペディア) 





テレビなどでよく見る風景


 紀元前3〜2世紀の頃古くから貿易の要所で港「Portus」として発展しポルトゥス・カレと呼ばれるようになる。997年にレコンキスタでイスラム勢力を打破したアンリ伯がこの地名のちなんでポルトゥカレ伯と名乗ったのが、ポルトガルという国名の始まりらしい。





この船は実際に使われたものでなく、少しい小さなものらしい。





パノラマ写真を撮って見た





そこへドン・ルイス1世橋にメトロが通りかかった。この橋、渡って見たかったな〜 ツアーだからな〜残念!





そして最初の観光はワインセラーの「サンデマン」。





ガイドブックにも載っている有名どころらしい。





1790年に創始者ジョージ・サンデマンがポルトガルワインのセラーを購入したのが始まりとか。





ポートワインとは普通のワインとは異なる。

 ポートワインは、まだ糖分が残っている発酵途中に、アルコール度数77度のブランデーを加えて酵母の働きを止めるのが特徴である。この製法によって独特の甘みとコクが生まれる。また、アルコール度数は20度前後と通常のワインの10〜15度に対し5〜10度程も高く、保存性が非常に優れている。

 このためポートワインは一度封を切っても通常のワインのように急激な風味の劣化、変化が起こることはなく、またタンニンの多少によらず長期保存が可能である。ベースとなるワインはあちらこちらで作られているが、最終的に熟成する地域が指定されていて、そこで最低3年間、樽の中で熟成されたものだけが、ポートもしくはポルトと呼ぶことができる。(ウィキペディア) 





長いものは樽の中で40〜50年と熟成させるらしい。





最高クラスのポートワイン試飲させて頂く。
私はお酒は普段頂かないが、このポートワインは甘いので、ついつい飲んでしまった。





皆さんこの高級ポートワイン(1本3〜4千円)を沢山購入されていたが、我が家では買わなかった。





少しでも高い所から見た方が歴史地区がよく見えるからなのか?ロープウェーがあった。





そして次に向かったのが、世界で一番美しい書店なのだが (この写真は関係ない)





可愛いワンコが散歩中





セグウェイに乗って観光している人がいた。





これが世界で一番美しい書店と言われるA「レロ・イ・イルマオン」。

 イギリスのカーディアン紙が選ぶ「世界の素敵な書店」第3位に輝いたこの小さな書店に、世界各国から来るため混雑し、並ばないと入れない時もあるという。空いている情報を得て、順番を変えて先に行くことになった。





2階に上がる階段はその美しさから「天国への階段」と言われているそうだ。





2階から下を望む。





映画ハリーポッターのロケ地として有名。





2階店内





ステンドグラスが美しい!





近くに街の象徴のグレリゴス教会の塔が見える。
私的にはこちらに行きたかったがな〜 まあ教会ばかりじゃね代わり映えしないからね。ツアーって良く考えられてるわ。





そして次はBサン・ベント駅に向かう。





ここからもグレリゴス教会の塔が見える。





駅構内 サン・ベント駅は1900年に造られたポルトを代表する鉄道の駅。





構内を彩る約2万枚のアズレージョはジョルジュ・コラコにより1930年に製作される。





ジョアン1世のポルト入城などポルトガルの歴史が描かれている。優しい色彩が素敵!





天井





駅のホームには改札なしで入れる。











構内を出て右手にはアズレージョの壁が美しい「コングレガスト教会」が





左手に見えるポルトの街並み





駅の売店で、旅行のお約束のマグネットを購入する。





メトロの地下道を通って





バスの待つ場所に戻る。正面がコングレガスト教会。

 これでポルトの街ともお別れ。ちょっと消化不良、もっと旧市街地を歩いてみたかったが、ツアーでは自由は効かない。何時ものことながら後ろ髪をひかれる思い。個人の旅ならもっと自由に、素早く色んな所が見られるのだが、高額になるし、何より大きなスーツケースが邪魔で持って歩けない事が今回同じツアーの人の話から分かった。やはりツアーで我慢するしかないかと思った次第。





次に行ったのがJコインブラ観光。

 約300年にわたるイスラム、アラブの支配を経た後、1143年のポルトガルの建国時までこのコインブラが首都だった。そして1255年までブルゴーニュ王朝の中心地として栄えた。遷都後はコインブラ大学を中心に、学生の街として知られるようになり、現在はリスボン、ポルトに次ぐポルトガル第3の都市へと発展した。





お昼時、気の張っているワンコ





ロトの専門店





メインストリートのフェレイラ・ボルゲス通り
黒いマントを着ているのは、学費を稼ぐコインブラ大学の学生





コインブラはファド(ポルトガルに生まれた民族歌謡)が有名で、伴奏をポルトガルギターが奏でる。





コインブラの街並み





壺を持つ女性の像





このレストランで昼食を頂く。





ツアー参加者はこんな感じ。





ケールのスープ(どうやらちぢみキャベツというらしい)





豚肉とあさりのアレンテージョ (パプリカペーストを使った、ポルトガル南部アレンテージョ地方の郷土料理)





中身は忘れたが美味しいパイだった。





「旧カテドラル」
ここは見学の予定はなかったが、偶然レストランが隣りだったので見ることが出来た。
 





アフォンソ・エンリケスにより12世紀中ごろ建造。ムーア人の侵略を恐れ、要塞としても使われたそうだ。






時間がなかったので、中は写真だけ急いで撮った。内部はゴシック様式。





衣料品店の看板がお洒落





フェレイラ・ボルゲス通りを歩くと





「サンタ・クルス修道院」





1131年アフォンソ・エンリケスが創設した修道院。





内部はこんな感じで、ポルトガル特有の雰囲気がある。





18世紀の美しいアズレージョの壁と





美しいパイプオルガン





脇の祭壇





手の込んだ細工の主祭壇





天井











祭壇の両側にはアフォンソ王とその息子サンショ1世のお墓がある。





細かい細工の説教壇は、ニコラ・シャンテレーネによるもので、ポルトガル・ルネッサンス彫刻の傑作だそうだ。

とここで美しいサンタ・クルス修道院とはお別れ






さていよいよ、世界遺産のコインブラ大学の見学

 コインブラ大学は、13世紀に設立された欧州屈指の名門国立大学。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。コインブラ大学の建造物群は2013年に世界遺産に登録された。まあ、つい最近のこと。





欧州屈指の名門国立大学でも学生の生活は楽でないのか? ポストカードなど売りに来る。(買いたい値段で買える)





おや、ダットサンの車があった! やはり金持ちの学生もいるのだな。





アルカソバの丘に建つポルトガル最古の大学。1537年に正式にここに置かれる。











いや、今日も良く晴れて暑い暑い!





街を見下ろす風景





有名なのは旧校舎の図書館なのだが、予約がないと入れないそうで、
添乗員がガイドに調べて貰ったら2時間待ちということで叶わず。





中はこんな感じらしい。





大学の創設者、ジョアン3世





旧校舎でも教室は今でも使われていて、休憩中の学生が沢山いた。





法学部の教室らしい。

 添乗員は、「こんな中まで入ったことがない。今回のガイドは親切だ。」と言っていたが、私ははたと、このガイドはこの大学の卒業生、つまり先輩なのではないかとお思い、ガイドに聞いてもらったところ、やはりこの大学の卒業生で、、我が家の庭とばかりに案内してくれたらしい。ラッキーだった。学生たちは賢そうで、親切だった。(大体、ポルトガルの人は皆親切!)

















今日は何かの集会があるということで





パトカーも出動していた。ポルトガルのパトカーは青!





フェレイラ・ボルゲス通りまで戻り自由時間があった。大学生が演奏していた。





日本に伝わった金平糖はポルトガルでは「コンフェイト・コン・ビコシュ」と言い、皆土産に買った。(写真なし)





カフェでくつろぐワンコ





コインブラの街ともお別れ





ポルトガルのポリス





モンテーゴ川に掛かるサンタクララ橋





いよいよ最終観光の地リスボンに





今日の夕食は「Restaurante Grand'Elias」





サラダとコロッケ





お肉料理





フルーツとアイスクリームのデザート 皆美味しく頂いた。





 この店で800キロのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼をした方(若々しく見えるが60歳を過ぎているらしい大きい男性)と同席でき、「私もやってみたいんです〜」というと「是非是非!」と勧められた。次は7月だったかな70過ぎの男性と一緒にまた巡礼するのだそうだ。大変なだけでなく、お金も掛かる訳で、牧師さんのような心をもった人だと尊敬した次第。





今日と明日リスボン連泊は、ホテル「VIP エグゼクティブ スリーク 」。スーペリアグレードのホテルだそうだ。





はてさて、土産を買ってないぞ!と教えて貰って出かけたショッピングモールは、闘牛場の下にあった。





スーパーには生ハムが普通に下がっている。





ゆうちゃんの好きなガチャガチャもある!





このおもちゃ屋でお土産を買った。








 2015/5/21(木)

 

今日も晴れて暑い。最終日まで天候に恵まれる。ヨッ、晴れ女! 観光5日目はKリスボンとLエヴォラ観光。











変わり映えのない朝食。実はモモパパ、お腹の調子が悪く、最終日まで朝食を取らなかった。





ホテル外観。

 紀元前1000年頃、海の遊牧民フェニキア人がイベリア半島に侵入。紀元前2〜1世紀は古代ローマが台頭し、道路、都市建設行政芸術、言語にまで影響を与える。この時期にキリスト教が伝来。その後もテージョ川河口という立地条件からいろんな民族から侵略を受ける。

 コインブラから南下したレコンキスタにより1249年イスラム教の最後の砦ファロムを陥落し、スペインから先駆けること約250年、レコンキスタが完了する。1255年にリスボンは王国の新首都に制定される。





これまた残念なことに、リスボンを下りて観光したのはこのリスボン地区のみ。





先ず@のベレンの塔に向かう。





正式名は「サルヴィ・センテの砦」 高さは35メートルあり地下地上6層構造になっている。

 1519年にマヌエル1世によって、ヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られた。テージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞。地下牢、1階は兵器庫、2階は国王の間、4回は礼拝堂、屋上はテラスになっている。どうやら中は大したことがないらしく、入らなかった。





「水上複葉機」 1922年、リスボン−リオ・デ・ジャネイロ間の単独飛行を記念した複葉機のレプリカ。





Aの「発見のモニュメント」





 
 ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路へ旅立った際の船出の地として知られ、1960年にエンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられた。高さ52mの巨大モニュメントの先端には、ヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする32人の偉人像を従えて王子の像が立つ。





東側





 先頭から、大航海時代の先駆的指導エンリケ航海王子 、大航海時代の王のアフォンソ5世 、インド航路発見者のヴァスコ・ダ・ガマ、騎士のアフォンソ・バルダイア 、ブラジル発見者のペドロ・アルヴァレス・カブラル、初めて世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼラン 。





西側





エンリケ航海王子の母のフリッパ・ランカスター(左から二人目 17日の王宮『カササギの間』の、ジョアン1世に女官にキスされた王妃)、やロカ岬の詩人ルイス・デ・カモンイス(左から5人目)等がいる。





 入館でき、頂上(エレベーターで上がれる)では、ベレン地区やテージョ川の素晴らしい眺めが楽しめるそうだがまだ閉まっていた。





 記念碑正面にある石畳には多くのポルトガル人航海者が辿った航路を示す世界地図のモザイクがある。このモザイクは1960年に南アフリカ共和国から贈呈されたもの。なお、世界地図にはポルトガルが「発見」した年が記述されているが、日本の場合、ポルトガル人が種子島に漂着した1543年ではなく、ポルトガル船が豊後に漂着した1541年が記述されている。(ウィキペディア) 登ってないので画像をウィキペディアより拝借。





実際に立つとこれくらいの大きさ。

















1541年と記述されている。ポルトガル的にはこっちが正しいねえ〜



ここで「発見のモニュメント」とはお別れ、次は今日のハイライトB「聖ジェロニモス修道院」へ






石畳を直していた。





トラムの線路を越して





聖ジェロニモス修道院 南門





 ヴァスコ・ダ・ガマのインドインド航路を発見を記念して、エンリケ航海王子が建設した礼拝堂を基に、マヌエル1世によって造られた修道院。設計者はマヌエル様式の第一人者のボイタックと彼の死後に引き継いだジョアン・デ・カスティーリョ。

 東方交易や植民地支配で得た巨万の富がつぎ込まれ、1502年から300年以上もの長い年月を費やし、19世紀に完成。まさにポルトガル黄金期を象徴する建物。ベレンの塔と共に、1983年世界遺産に登録される。





南門 アップ





西門から入場





 西門から聖ジェロニモス修道院中ほどにあるサンタマリア教会に入った両脇にある2つの石棺のうち、カモインス(最大の詩人 ロカ岬の「ここに地終わり、海始まる」)の石棺





 余談  中は相当暗いのだが、モモパパの撮影する「PowerShot S120」だとこんなに明るく撮れて、よく分かるが、雰囲気が出てなくて痛し痒し。





サンタ・マリア教会内部

 聖母サンタ・マリアを讃えるために造られた、3廊式の石造りの重厚で、マヌエル様式の美しい教会教会。





天井と柱はヤシの木をイメージしている。





「王の墓」

 教会奥の中心礼拝堂の祭壇。中央にはインドから持ってきた銀で作った聖遺物箱があり、左側にはマヌエル1世と妃の石棺が、右側にはジョアン3世と妃の石棺が置かれている。台座にはインド象が施され、インドとの植民地的支配を物語っている。





キリストの生涯を描いたローレンス作の5枚の飾り板





礼拝堂向かって左の副礼拝堂





後方





両脇にある2つの石棺のうちの一つ「ヴァスコ・ダ・ガマの石棺」





「願いを叶えてくれる手」は航海の無事を祈りふれたとか











「回廊」

 中庭を取り囲む役55m四方の回廊で、石灰岩を用いた外柱やアーチには、ロープや貝、異国の植物と言った大航海時代を象徴するモチーフが埋め込まれている。2階建ての構造で1階をフランス人建築家ポイタック、彼の死後2階をスペイン人建築家のカスティーリョが設計している。





財力の成せる業!











ここは食堂。 修道士が食事をした奥行50mの広々とした空間で





壁を覆う18世紀のアズレージョが美しい!





聖ジェロニモスの絵 
 

 ジェロニモスはヘブライ語で書かれた旧約聖書をラテン語に翻訳した人で、荒野で傷ついたライオンを助けたのでそばにいつもライオンがおり、 翻訳を助けた女性が先に亡くなったのでその頭蓋骨を常に傍に置いているのだそうだ。





 西の階上のバルコニーは聖歌隊席になっている





サンタ・マリア教会後方2階から主祭壇を望む





16世紀に作られた「キリストの受難」











国王夫妻の婚礼シーンを描くステンドグラス





アップ





2階から見た回廊











階下に降り、聖ジェロニモス修道院の観光はお終い。

 ここのトイレで、豪華客船「飛鳥」に乗って来た人と一緒になった。やはりリッチな感じ。お会いできて光栄です。」って感じにで、卑屈になりかけた私。豪華客船が寄港すると、観光地は凄い人でごった返すのだ。





丁度メトロが通りがかってパチリ!





この暑いのにワンコがお散歩





 ここに来たら絶対食べなきゃならない!エッグタルト。「パスティス・デ・ベレン」のエッグタルトは行列覚悟の絶品。並ぶ時間が惜しいので、添乗員さんが買っておいてくれたのだが、正しく絶品!





ほらね、並んでる。





コメルシオ広場

 このツアーで一番残念だったのが、リスボンの市街地を観光せず、エボラという町に行くコースになっているということだった。「エッ?ここまで来てリスボンの街を観ない訳?」 モモパパに、お昼を食べたら皆さんと別行動にしてもらって、リスボンの市街地を散策しない?と提案。リスボンの街は小さく、ガイドブックがあれば徒歩で見て回れる広さ。しかしながら別行動の不安さと、世界遺産好きのモモパパの了解を得られず、エヴォラに行くことにした。





バスからの観光





街のあちこちに由緒正しげな銅像が建っている。





ああ、これは乗って見たかった「サンタ・ジュスタのエレベーター」

 実は一組2人(姉妹)だけ、私と同じように考え自由行動でリスボンの街を散策した人がいらしたが、このエレベーター、たいそう並んで乗ったが、上がったら下りるだけだったと話されていた、なるほど。





坂の街、リスボンのケーブルカーにも乗って見たかった。落書きが残念なことだわ。





可愛い2階建て観光バスが走っている。





で、着いたのが今日の昼食のレストランがそばにある「エドゥアルド7世公園」。見晴らしが良い!











昼食のレストラン「ボテキン・ド・レイ」





店内





スープ





ジャガイモの蒸かすしたの





「サルディーニャシュ・アサーダシュ」

 初夏の風物詩、イワシの塩焼き。一人前4〜6匹だそうだが、骨が苦手な私としては1匹で十分。味は生臭さもなく美味しかった。ポテトに合わせて食べるのがポルトガル流。かなりショッパイ。





デザートはプディングとカステイラ





「エドゥアルド7世公園」は良く手入れがされている。





午後は東に約125km、世界遺産の街「エヴォラ」へ 行きには「ヴァスコ・ダ・ガマ橋」を通って





 テージョ川に架けられた斜張橋。全長は17.2qあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。1995年に着工され、リスボン国際博覧会開催直前の1998年3月29日に開通。ヴァスコ・ダ・ガマ橋という名前は、航海者ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達500周年を記念して付けられた。





川の干潟であさり掘りをしている





塩田だそうだ。



   さてLエヴォラの街に到着! エヴォラはローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、イエズス会の大学もおかれた学芸の都でもある。1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄った街でもある。1986年に世界遺産に登録される。





 


@のサンフランシスコ教会は大規模な修理中。





Aのジラルド広場











B「10月5日通り」を通る。





可愛いお店。





Cカテドラル 左右非対称の塔が特徴。





着工から60年を費やし、1204年に完成。





ハザードの彫刻





側祭壇





アップ





反対側の側祭壇





主祭壇を望む





伊藤マンショと千々石ミゲル演奏したパイプオルガン。上手に弾いて、聞いていた人も驚いたとか。

 天正遺欧少年使節団 1582年〜1590年、キリシタン大名とイエズス会の命によって、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年がヨーロッパに派遣され、スペイン・ポルトガル国王とローマ教皇に謁見した。初めてヨーロッパに渡った日本人。





いやいや、見事な主祭壇。少年使節団は眼にするすべての物に驚いたに違いない。





「明けの明星」と呼ばれるステンドグラス。





「神秘のバラ」と呼ばれるステンドグラスが見える。





説教台





ここでカテドラルとはお別れ。





この街にはDローマ神殿がある。






 2〜3世紀、ローマ人により建造される。ディアナ神殿とも呼ばれ中世に砦として利用された為、イベリア半島の中では保存状態が良い。御影石を使った柱身、柱頭が残されている。こんなところにローマ遺跡で驚く。





そのわきにあるEロイオス教会





ロイオス教会 何か説明していたが忘れた。





そしてこの辺りに





ヴァスコ・ダ・ガマが住んでいたことがある家だそうだ! 何故宣伝しないと皆不思議に思った。





コルクのバッグが欲しなあ〜と物色する。ここはコルク製品生産の街だそうだ。





しかしながら、高級革製品と同じ値段設定で、偉い私は諦めた、えらい!





近くの公園に行ってみた。





珍しい、コショウの木だそうだ。葉っぱもコショウの香りがする。





シェーパードの一種だそうだ。未だ子犬。





我々が乗っていたバス、まずまずの乗り心地だった。





二重構造の強固なF城壁に囲まれたエヴォラとはお別れ。





さて帰りは4月25日橋をわってリスボンに。右手に見えるのが「クリスト=レイ像」。











首都リスボンを見渡すカトリックの記念碑。リオ・デ・ジャネイロにあるコルコバードのキリスト像に触発されて造られた。











今日のディナーはファドを聞きながら。





生野菜のサラダ





先ずは民族舞踊を見て





堅いお肉のメイン





女性の歌手が迫力の歌声を聞かす





次は男性が、中は本当に真っ暗で良く見えない。





デザートのチョコレートムース





トリはCDも出ているという歌手だった。
残念なことだが、歌に熱意が伝わって来ず誰もCDを買わなかった模様。





ディナーが終わったら夜も更けて、さて明日は格安ツアーの為朝3時起き!





ホテルのお店で「コニンブリガ焼のガロ」を購入する。7.5センチくらいの大きさ。








 2015/5/22(金)

 
今日は晴れ。いよいよポルトガルとお別れ。

 格安ツアーということもあってか、帰りは朝一番リスボン6時発の飛行機で、3時起き! 昨夜はファドで寝るのも遅かった、寝ないでおこうか?という話も出たが、寝られなければ寝ない、寝られれば寝るというスタンスでベッドに入り、少し寝たくらい(これ位が丁度良い、何故なら帰りの飛行機では寝て帰らねば、羽田に着いたら朝6時だから)で起きた。 

 パリで乗り換えるのだが、パリからは長時間のフライトだから飛行機の席は大事! 通路側でないと人を起こしてトイレに行かねばならない。どうぞ良い席になりますようにとの祈りもむなしく、なんとモモパパとの席が大きく離れた上に、二人とも中の席。

 このような人がまだ何組かいて、添乗員も「なんて意地悪な人なんだ!(手続するカウンターの人が)」と怒っていた。ってなわけでリスボン空港では写真がない。

  


パリ、シャルル・ド・ゴール空港

が、しかしながら優秀な添乗員のこと、ツアーの皆さんの席をうまいことシャッフルして大きな混乱はなかった。






パリをエールフランス11時5分発の飛行機に乗って羽田に戻る。





シャルル・ド・ゴール空港は清潔で大きなお洒落な空港だった。











優秀な添乗員さんは昨晩風呂で足を滑らせ、ろっ骨を強く打ったとか(内緒の話)どうぞ良くなっていますように。





お土産に、有名なお店のマカロンを買った。











ラッキーなことに、モモパパの席は足が延ばせる良い席に変わっていた、添乗員さんありがとう!





おつまみを頂いて





映画「舞子はレディー」(たいして面白くなかった)を見て





機内食を頂いて、寝た。








 2015/5/23(土)

 
今日は晴れ。旅も終わり、羽田に着いた!

 普段は飲まない睡眠導入剤を旅行の時は飲むようにしている。枕が変わって寝られないと、疲れがたまってダウンしてしまうからだ。食事をして導入剤を飲んだところ、時々目は冷めたものの、起きたら2度目の食事で、いつものことながらこの薬には助けられる。



起きたら、もうすぐ日本に尽きそうだ! 行きの時とはえらい違い。





2度めの機内食











朝6時過ぎに羽田に着いた。





 旅の間シーさんと仲良くして頂いた。ご夫婦で4、5、6月と海外旅行をする(した)のだそうだ。シーさんが「9月に安いスイスがあるわよ〜私達は申し込む予定よ〜」と仰るので、我々も一応申し込んだ。体調を整えて次はスイスか!?


   ポルトガルという国は、聞いてはいたが、のどかな国だった。ひとは皆ニコニコして親切。物価もさほど高くなさそう。小さいけれど良い国だった。沢山教会を見た、いや教会しか見なかったともいえる。教会ばかりでそれぞれの印象も薄くなりがち。一番心に残った教会はどこかな〜 私的には、20日に行ったコインブラのサンタクルス修道院だったかな〜




コインブラのサンタクルス修道院







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